3度のメシより、ほとけさま。

ほっとけない仏様 & ぶっそうな仏像 が大好仏‼︎

【番外】哀しい哉 悲しい哉…


先日、お散歩ツアーを企画して20人弱で岩船寺〜石仏めぐり〜浄瑠璃寺のコースを歩きました。
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岩船寺は、近鉄奈良駅の待ち合わせ場所でも有名な行基菩薩が阿弥陀堂を建立。のちに弘法大師空海とその甥の智泉大徳が報恩院を建立したのが始まりとされてます。

多くの弟子の中でも、空海が最も深い愛情を注いだ弟子が、智泉でした。
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空海がエリートの道を捨てて突然仏教を志し、山林修行に明け暮れていた20代の頃。
わずか14歳だった智泉が弟子になる。空海の姉の子だった智泉は、まさにスーパーマンのような叔父の空海を尊敬し心酔し、いつでも側について様々な事を学びとっていきます。

そして空海遣唐使船で訪れた唐で密教に出会い、その奥義を極める。帰国後、智泉に再会した空海は彼にも密教の教えを細かく授け、二人で普及活動を始めます。

その後、高野山の地に修行の場を設ける決意をした空海だが、自身は東寺の立体曼荼羅の制作などで多忙を極めていたため、高野山寺院の建設を弟子たちに任せました。
智泉は空海の手足となり高野山建設の陣頭指揮を取る。しかし800メートルを超える厳しい自然の山上に伽藍を作る工事は、とてつもない難航を極めた。  

8年間、一日も休まず難工事を続けた智泉は無理がたたり、ついに倒れる。報を受けた空海は駆けつけた。必死の祈りも虚しく 智泉は37歳の若さで命を引き取ります…。
その瞬間、空海は絞り出すようにつぶやいた。
 
哀しい哉 哀しい哉  哀れが中の哀れなり
悲しい哉  悲しい哉  悲しみが中の悲しみなり
哀しい哉  哀しい哉  また哀しい哉
悲しい哉  悲しい哉  重ねて悲しい哉

ものすごい悲しみだ。読んでるこちらまで胸が苦しくなるような悲しみの塊が積み重なって迫ってくる。

智泉の死の10年後…。仁明天皇が智泉の遺徳を偲んで建立したのが、岩船寺の三重塔。

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私たちが訪れた日も、智泉が好きだったという紫陽花が見事に咲いていました。

元は三重塔に納められていた
普賢菩薩騎象象。
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画技に優れていた智泉が、空海の指導に基づいて制作したとの事です。
普賢菩薩様は法華経を念じている行者のもとに白い象に乗って現れる、と説かれています。

全体にほっそりとされていて、たおやかな佇まい。清楚で気品に満ちたお顔の普賢様と、蓮のつぼみを鼻先に持って笑っている白い象。
平安時代には、女性往生を説く法華経が大流行したようです。その法華経修行をする人たちの守護菩薩である普賢菩薩様。当時から女性の信仰を熱く集めていた人気の仏さまです。

この普賢菩薩様自身も、どこか優美で静かな女性らしさを感じますよね。

智泉大徳の事、智泉を想う空海の事を胸に、
先日私も静かに合掌させていただきました。